昭和四十八年七月二十五日 御理解第三十三節


 お供え物とおかげは付物ではないぞ。


 お供え物とおかげは付物ではないと云うおかげ、と云うことは・・・お供え物とお徳とは付物ではないと云うことだと思うですね。 もう金光様の信心で云うおかげと云うのは、私は御神徳と云うことだと思うです。教祖はもう御神徳を受けることの為にこの世に出現なさったお方だと。人間氏子が天地の御信用を受ける。そして人間が真実の幸せになる事の為に金光教はだから生まれたと云うても良いと思います。
 お供え物とおかげとは付物ではないぞと仰るおかげとは、お供え物をしたからお徳を受けるのではないぞと云う意味。と、云うことはです、どうしてそういう風に言えるかと云うと、お供え物をすると普通で云う御利益です、その御利益を受けられると云う事実があると云うことです、不思議に。
 だから、四神様の御教えだったでしょうか、「庭の塵までも」と仰る。何もお供えする物が無いと云う時には、庭の塵までもそれを清めて、これを私の真心のお供えとして心の現れを表し方。表す事を教えておられます。だから何も持って來ることはいらんということじゃない。無いときには庭の塵までもと。
 私共でもいよいよお賽銭を切らした時には昔証紙と云うものがありました。買物をすると切手をもらう、そういうのが財布に入っておる、それをそれこそ何にもならぬものですけれども、やっぱり押し頂いてそれをお賽銭函の中に納めさせて頂いた。
 だから信心させて頂く者の真心の表現と云うものがです、やはりお供えと云うことになるのですから、お供えは大変大事なことです。例えば、それは金光教の流儀じゃないと云えばそれ迄ですけれども、〇〇教なんかの場合では、もう絶対お供えがやはりおかげのと云う、それは一つの道理に基づいた事ですからね。だからお供えはせんでもお参りは出来る。拝むことも出来る。合楽の場合はお取次を頂くことも出来る。けれども、お供えをしてからお願いをする。お供えをしてから拝む。お供えをしてからお取次を願う方がおかげは受ける。けれどもね、それがお徳と云うおかげではない。お徳と云うのはもう何処までも真心である。だからここんところお供えと云わず、お参りとおかげは付物ではないと云うても良いわけです。
 沢山もう昼も晩もお参りするからお徳が受けられると云う事じゃない。けれども、参れば参る程、今日云う御利益の方だけは頂くことは間違いないです。二偏よりも三偏参った方がおかげ頂くです。これは、それはお供えをすればする程おかげを頂くと云うのと理屈は同じ事。それからここんとこ御用とおかげは付物ではないと云うても良い訳。御用をしたからおかげ、お徳を頂くと云うことじゃありません。
 例えば、一生金光様の先生、永くこれはもう御用に専念する訳ですから、大変お徳を受けんならんのだけれども、お徳とも思われない、お徳を受けてあると思われない先生方も沢山あると云うこと。けれどもね、御用すれば助かると云う事実もまたあると云うこと。もう御用さえしとりゃ、おかげ頂くと思い込んどる人があります。これはもう、昔の信者さん方にはそれが多いです。改まるとか、研くとか真心とか云うことは大して問題じゃない。その人の為には御用さえすりゃよか、もう教会の御用と云えばいち早く、だから御用。ここでは御用とおかげは付物ではないと云う意味のことを申しますけれども、それはおかげを受けられると云うことは事実。御用さして貰えば、けど御用を頂いたからお徳を受ける徳と云うおかげは受けられない。
 私はこの三十三節はその様な風に頂かねばならんと思います。だから御用もお参りもお供えも出来れば出来る程御利益を受けると云うことは言えます。その証拠には付物ではないと仰るおかげには、そんなに参ったから、お供えをしたから、御用頂いたから神様の御信用を受けられることではないと、いわゆる神様のお徳を受けられる事ではないぞと教えておられるのです。
 私はこれは日々願わせて頂くことは、合楽に御神縁を頂いている方達がです、もうおどうぞおかげを分からせて貰うて日々の信心生活が出来ますようにと云う意味の事を必ず願うです。おかげをおかげと分からせて貰うてと云うことになるですね。
 実際はもう一切がおかげです。皆さんの上に表れて来ているおかげ、もう一切がおかげなんです。神様のお働きを・・・・
 とりわけ合楽に御神縁を頂いてしかもお取次を頂いて、日々信心の稽古をしている者の上に起きて來る全てのものがもう実を云うたらそれはもう、微に入り細に渡っておかげばかりなんです。それを皆さんがおかげと思いきったり、思いきらなかったり、当り前の様に思うたり漠然と只おかげと感じておると云うこと。
 だから皆さんがどうでも、例えば信心のない者が、おかげではないと思う様なことでもおかげ、どんなに考えてもおかげと思わせて頂けれる信心を皆さんが進めて頂きたいと云うことを願うのです。 皆さんがおかげを本当におかげと願ったらそれこそお参りもどんどん出来るでしょう。お供えもどんどん出来るようになるでしょう。御用もどんどん出来る様になるでしょう。
 こういう生き方ならばお徳を受けるです。あれもおかげこれもおかげと思うところからです、それは止むに止まれんでお参りをせねばおられない、お供えもさして貰わねば居られない。御用も勿論さして貰わねば居られないことになって來る。こういう私はおかげであったなら、そういう信心であったなら、これはおかげは勿論のこと、これならお徳が受けられる。問題は皆さんが本当におかげと思う一切をおかげとこう思えれる信心を皆に頂かせて下さい。私は知って居る、皆がおかげであると云うことを知って居るけれども、皆さんはそれを知らない。そこでそれを知らせて下さい。そこで只只いきなりにです、只無闇におかげと思えとは思わん。もうこれも絶対合楽に御神縁を頂いて來る人達、例えそれが痛いことであろうが、苦しいことであろうが、悲しい事であろうがです、その前後の事を思うて見ると分からない。分からないけれども、その前後の働きを思うて見るともうおかげと思わねば居られない働きが必ずあっておると云うことです。これは間違いない事です。
 だからこういう間違いの無い働きの中に、この痛いなら痛いことが起こって居るのであるから、これもやはりおかげに違いないと確信させて貰う信心。だから只無闇やたらにです、おかげと思えおかげと思えと云うのじゃないです。私が云うのは皆さんよう心を日々使っていってごらん、そういう働きが自分の周辺に一杯あっておるです。ですから、例えばそれがです、痛いことであったり、腹の立つ様なことであったり、損をする様な事であっても、その周辺にです、神様の働きを神様の働きと思わにゃおれない働きがあるのです。だからそういう働きの中にある痛いことであるのですから、これもおかげに違いないと御礼が言えれる。
 これと同時に必ず私が願わせて貰うことは、皆さんの根、家の根であるところの御先祖です。御先祖がどうぞ金光大神にの御神縁を頂いたのであるから、皆さんが金光大神の御取次に依って御先祖が助かられるようにと云うことを願わなければ、これは根ですから家の、根本的なおかげ頂くためには、その根が生き生きして来ねばおかげにならんのです。皆さんは願いよんなさいますでしょうね。皆さんの御先祖、これはもう、合楽に御神縁を頂いておる方達の霊の上のことに関しては、私はこれは必ず朝晩願っとることですから、皆さんも願われることに依ってつながるです。御先祖が助かるです。
 自分が助かる前に先ず家の根である御先祖が助かって生き生きとして来ねばいけません。
 お供え物とおかげは付物ではないと云うことを今日は只御利益と本当の信心を頂くと云うこと、御神徳を頂くと云うことを今日は聞いて頂いた。
 確かにお供え物と御神徳だけは付物ではない。どんなにもう沢山のお供えをしたところで、どんなに朝参り夜参りさせて頂いたところで、これだけは神様の御信用だから、云うなら御神徳と云うこと、幾ら参って来たっちゃ神様が信用しなさらなかったら、お徳は受けられない。神様は何処までも神様の御信任を頂かせて貰う、神様の御信任云うのはです、私共が一切の中に有難い有難いと云うおかげと云うことを分からせて貰うて、そのおかげがです、どげん考えてもおかげと思いますと云うとるだけではおかげにならんです。
 そのおかげと思うその実感が、次のお参りにもなり次のお供えにもなり、次の御用にもならせて頂くところから、これならば絶対御神徳が受けられる。だから折角お参りをさせて頂くんですから、折角お供えもさせて頂くんですから。
 真心いっぱいと云うことは、おかげをおかげと実感して御礼のしるしにと云うそれが私は真心だと思う、ね。不純なものがないでしょう。だから先ずはおかげをおかげと分からせて貰わねばならない。
私の願いもです、合楽に御神縁を頂いとる全部の方がです、どうぞおかげをおかげと分からせて貰えれる信心、そういうおかげを頂かせて下さいと願う、そこにあれもおかげであるこれもおかげであると分からせて頂くその実感がお参りとなりお供えとなり御用とならせて貰う、そこからおかげが受けられる。
 只お供えをする、只お参りをするというのでは、御利益にはつながるけれども、御神徳を受けると云うことにはつながらないと云うことを聞いて頂きましたですね。 どうぞ。